長谷川健志ヘッドコーチ・ロングインタビュー
「観る者にエネルギーを与えられる日本代表に!」

取材・文/松原貴実   写真/小永吉陽子

第1次強化合宿には26名のうち16名が選抜された。参加したのは14名(東芝神奈川の2選手がチームの遠征のために欠席)。初日からトランジションの速い練習メニューをこなした

「観る者にエネルギーを与えられる存在。
日本代表がその一番手にならなきゃいけないと思います」

 長谷川健志 男子日本代表ヘッドコーチ

2014年4月、男子ハヤブサジャパンの新しいヘッドコーチが発表された。
就任したのは長谷川健志、54歳。
26年間、青山学院大学バスケットボール部の指導にあたり、大学界屈指の常勝チームに育て上げた。
手塩にかけ育て上げ、トップリーグに送り出した選手は数知れず、
全国に散らばる『長谷川チルドレン』の活躍もまたその功績を物語っている。

昨年のアジア選手権で9位に終わり「アジアでも勝てない」現実を突き付けられた日本男子代表チーム。
だが、2020年東京オリンピック開催が決まった今、その結果に落胆している暇はない。
「これからの代表が目指すのは‟明るく元気な日本男子”です」と笑顔で語る新ヘッドコーチに、
その生い立ち、バスケットボールとの出会いから現在に至るまでの道のり、
さらに自身が目指す代表チームの在り方までさまざまな話を聞いた。

日本男子バスケットボールの将来を託された長谷川ジャパンは
「情熱と覚悟を持って」この6月、新たなスタートを切った。

 
 

■バスケットボールとの出会い、中学・高校・大学時代

「中学時代はキャプテンで、なかなか行動力のある子でしたね(笑)」

――お話をうかがうにあたり、まずはあまり知られていない長谷川さんの生い立ちを紹介したいと思います。お生まれは千葉とお聞きしましたが。

はい、生まれも育ちも千葉県市川市です。市川市立第三中学校、専修大学松戸高校、青山学院大学と進みましたが、大学にも市川の実家から通っていました。

代表活動を前に「一人ひとりの選手と面談した」と語る長谷川ヘッドコーチ。自身の思いを伝え、選手の海外挑戦などの希望もじっくり聞いたという

――バスケットボールを始められたのは?

中1の時です。僕はスポーツ少年で、小学校の時はサッカー、野球、水泳、相撲といろんなスポーツをやっていたんですが、中学に入ったらサッカーをやりたかったんですね。1968年のメキシコオリンピックで日本が銅メダルを取った後ぐらいで、日本でもサッカー熱が盛り上がっていました。毎週日曜日10時からのテレビ番組「三菱ダイヤモンドサッカー」とか、ワールドカップなんか、もう釘づけになって見てましたよ。

――でも、中学ではサッカーでなくバスケットを選んだ?

中学に入ったらサッカー部がなかったんですよ(笑)。やっぱり千葉って、野球が盛んな土地柄なんですね。学校のグラウンドはそんなに広いわけじゃないから、野球部とサッカーは同時にできなかったんでしょうね。それでバレー部に入ることもちょっと考えました。バレーもね、ミュンヘンオリンピック(1972年)で金メダル取ってアニメにもなって人気ありましたから、バレーもいいかなあと。でも、考えてみたら、バレー部のキャプテンが兄貴だったんです(笑)。2歳違いなんですが、家でもいろいろ言われ、部活でもいろいろ言われるのは敵わないからやめておこうと(笑)。それで友だちとバスケ部の練習を見に行ったら、すごくうまい人が1人いて、「わぁカッコいいなあ」と思ってバスケ部に決めました。バスケットってみんながボールを触れるし、みんなが得点に絡めるし、すぐにおもしろくなって夢中になりましたね。

――当時の市川三中学は強かったんですか?

強かったですよ。僕たちの少し上の先輩たちは県大会で優勝してますし、だいたい県ベスト4とかベスト8とかには入ってました。僕たちの1つ上の代はあまり強くなかったんで、僕らは2年生から試合に出てて、自分たちの代になったら絶対県大会で優勝するぞと燃えていたんです。僕はキャプテン任されて本気で県大会優勝を目指してたんですけど、10月の最初の大会で1回戦でコロッと負けしてしまったんですね。ショックでした。

でも、その分、余計に冬休みは頑張ろうとみんなで話してたんですけど、ある日、キャプテンの僕が先生に呼ばれて12月25日から1月5日まで練習は休みになると聞かされたんです、びっくりして、「なんでですか?」と聞いたら、先生がスキーに行ったり、いろいろ忙しいからと。まあ部活の顧問というのはボランティアみたいなものだから仕方ないのかもしれないけど、僕らは練習したいわけですよ。でも、先生がいなければ学校で部活はできないと言われ、すぐに自転車で市の体育館にすっ飛んで行きました。それでオヤジにサインしてもらってその体育館で練習することにしたんです。

――行動力がある子だったんですね。

そうですね、行動力はある方でしたね。同級生や下級生にも「これは学校の管轄じゃない、自主練なんだから、来たくないやつは来なくていい」と伝えました、でも、そう伝えても、まぁみんな来ますよね(笑)。結局、自分たちだけでその体育館で1週間練習しました。部を引退した後もすっと後輩の練習の指導に通って、先生があまり専門でなかったから自分がコーチみたいになってね、今から思ってもすごい鬼コーチで(笑)。その(後輩たちの)チームが県大会で準優勝したんですよ。そのころから漠然と「将来は(バスケットの)指導者になりたいなぁ」という気持ちはありました。

「中学時代から“将来は指導者に”という思いがあった」と語る長谷川氏

――専修大学松戸高校(専大松戸)に進まれたのはご自分の意思ですか?

そうです。当時、千葉と東京の高校からちょこちょこ話をいただいていたんですが、専大松戸からの話を聞いたとき、ちょっとずつ強くなってきている学校だし、自分が在学中にインターハイ初出場を目指すのもいいかなあと考えて自分で決めました。

――でも、大学は専修大ではなく青山学院大に進まれました。そのきっかけは?

僕の中学の先輩が、僕の8つ上から5年間で6人ぐらい青山(青山学院大)でバスケやってたんですよ。高校3年のときにその人たちと会う機会があって、中でも一番仲がいい人がまだ青山の現役だったんです。で、その人が「うちに来いよ」と誘ってくれて、代々木に試合も見に行きました。どうだ?と聞かれたので、「少人数だから試合に出れますね」とか「シューターがいないですね」とか勝手なこと言ってたんですが、それがきっかけで進学を決めました。

――当時の青山学院大はどのくらいのレベルだったんでしょうか?

ちょうど7大学問題(※)でリーグが分かれたときだったので、そのときの1部の1番下でした。4年生になったときはみんなの投票でキャプテンに選ばれたこともあり、チームをいろいろ改革して本当に強くしようと必死だったのを覚えています。下級生にも力のある選手が入ってきたし、このままつないでいけば必ずもっと強くなると。そのためにはああやって、こうやって、みたいなことを毎日考えてましたね。
(※1976年、早稲田大、慶應義塾大、明治大、日本大、中央大、立教大、東京大が、関東大学バスケットボール連盟を離脱し、東京7大学バスケットボール連盟を結成した)

――大学を卒業して指導者になることは考えなかったのですか?

指導者にはなりたかったんです。でも、たとえば高校の先生になるにしても、そこにまた自分として疑問があったんですね。22歳まで大学生で社会のことはまだ何も知らないのに、先生になっていいのかなぁみたいな。そんな自分が人を教えるのっておかしいんじゃないかなぁとか。僕は自分が納得いかないとダメなんですよ。それで、やっぱり世の中の絶対的多数のビジネスマンというものに一回なってみようと、ナイキ(ナイキジャパン)に勤めることにしたんです。

――ナイキではどういうお仕事をなさっていたんですか?

いわゆる販促(販売促進)ですね。3年間勤めたんですが、おかげでバスケットの日本代表チームを始め、いろんな現場に顔を出し、バスケット関係の知り合いがたくさん増えました。自分にとって貴重な3年間だったと思います。
 
 
◆2ページ目は「ビジネスマンを経て青山学院大のコーチに」
 
 

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