女子準優勝――山形商
山形商――強く、しなやかな絆

文/三上 太  写真/一柳英男

左からチームを牽引した3年生3人、仲野由真、大沼美琴、黒田陽菜

 2011年12月28日、ウインターカップの女子決勝戦が行われた。結果は日本代表、長岡萌映子を擁する札幌山の手が大会2連覇を達成。長岡という日本の未来を担う選手の実力を改めて感じさせる大会であった一方、チームとして最高の結束力を見せたのは、準優勝の山形市立商(以下、山形商)だった。
 山形商の3年生にとっては順風満帆なだけの3年間ではなかったが、彼女たちは荒海を乗り越え、高校生活最後の舞台で最高の“絆”を手にした。3人の3年生を中心とした山形商の絆に迫る――。

 

「全国制覇を狙います!」──宣言から1年

一戦一戦、勝ち上がり、初の決勝の舞台に立った山形商

 日本経済新聞運動部に『敗因の研究』という本がある。さまざまなスポーツの敗因を分析したもので、そのなかに「揃わなかった三本の矢」と題したバスケットボール女子日本代表の話が出てくる。1996年のアトランタ五輪で7位という成績を彼女たちが、2000年のシドニー五輪出場をかけて戦ったアジア選手権で敗れた原因を探る話だ。内容を簡単に記せば、アトランタ五輪のときに主力だった3人――村上睦子、萩原美樹子、加藤貴子のうち、萩原がシドニー五輪予選のときには現役を引退していた。もちろんそのことだけが敗因ではないのだが、その3人が揃わなかったことに焦点を置いて物語は描かれている。

 ここで描き出すのは、むろんその話ではない。しかし、それほどまでに「3」という数字には力強さや安定感が感じられるのである。

 2010年12月25日、クリスマス。ウインターカップ2010で札幌山の手に敗れた山形商2年(当時)の大沼美琴はりゲームについてひととおり話し終えると、はっきりとこう告げた。

「仲野(由真)も戻ってきたし、シューターの黒田陽菜も戻ってくるので、来年は全国制覇を狙います!」

 中学2年生のときから、日本バスケットボール協会が推進している「U-15女子トップエンデバー」に選ばれている大沼は、もちろんコートに立てば、そのポテンシャルをフルに発揮するのだが、積極的にチームを引っ張っていくタイプではなかった。その後、ミニバスの指導者でもある彼女の父親が「あれはボクの教えのせいです…。目立たないところで頑張れるプレイヤーになれと昔から教えていたので」と苦笑いをしていたが、その言葉どおり、得点やアシストなど目立つ分野ではなく、リバウンドやルーズボールといった地味だが、チームが勝つためには必要不可欠な部分を黙々とこなしていくタイプの選手だった。その寡黙さはコートを離れても変わらず、当時は何を聞かれても、何をどう答えていいのかわからない。答えるにしてもレコーダーが拾えるかどうかのか細い声で、はい、いいえを繰り返す、どこにでもいる女子中学生だった。その大沼が3年の歳月を経て、“揃った3本の矢”ではっきりと全国制覇を狙うと言うのだ。

 彼女たち3人が揃うまでの日々はけっして平坦なものではなかった。苦しみの連続だったと言った方がいい。しかも、その苦しみがよもや最後の舞台にまでつきまとうことになるとは、そのときの大沼は考えてもいなかった――。
 

二度の大ケガを乗り越えて、最後の大舞台へ

ケガを乗り越え、一回り成長した仲野由真

 仲野由真は大沼と同じく中学3年生のときから「U-15女子トップエンデバー」に選ばれるほど将来を有望視された選手だった。そしてお互いがお互いをはっきりと意識し、切磋琢磨をしながら、2008年3月に行われたジュニアオールスターでは、山形選抜の中心選手として同チームを初のベスト4まで導いている。当時はどちらかといえば仲野がチームを引っ張り、大沼がフォローするという、今とは逆の形を形成していたほどで、実際、仲野はその大会でベスト5にも選ばれている。

 しかしそのジュニアオールスターで仲野は右ヒザ前十字靱帯を断裂してしまう。さらに試練は続く。山形商に入学後、ケガを治して、初のインターハイも終えた夏の練習試合中に、またもや右ヒザ前十字靱帯を断裂してしまったのである。仲野は当時をこう振り返る。

「辞めたいとは思わなかったけど、リハビリ中は自信をなくしたというか、もうバスケットが続けられないんじゃないかと思っていました」

 それでもジュニアオールスターのときに山形県内の選手だけで全国ベスト4に入れた自信が、山形商でも同じようにできるのではないか。「今度は高校のメンバーで全国制覇をしたい!」。その目標があったからこそ、自分を奮い立たせることができたという。さらに仲野はこう付け加える。

「リト(大沼のコートネーム)の存在は大きかったです。高1でケガをして、外から見ていてもリトがどんどん伸びていくのがわかりました。だから3年生になったときは少しでもリトに近づけるようにって練習してきたんです。正直なところ、ケガをしなかったらどうなっていただろうって思ったときもあったんですけど、過去ばかり振り返っても仕方がないし、早く治して少しでもリトに追いつこうって考えました」

 その思いを昇華して、仲野は高校最後の大舞台、ウインターカップ2011のコートに立ったのである。
 

目前でこぼれ落ちた最高のラストステージ

秋の山口国体では、ケガからスタメンに復帰。準優勝に貢献した黒田陽菜

 黒田陽菜は中学までを福島県で過ごしている。その才能は当時から非凡なものがあり、中学1年のときからジュニアオールスターの福島県選抜チームに名を連ねるほどだった。しかもその年はベンチスタートではあったものの持ち前の攻撃力を発揮し、大沼、仲野に先立つこと1年前、すでにジュニアオールスターの最終日のコートに立っている。その黒田が「(大沼、仲野のことは)中学時代から知っていて、本当に一緒にやりたかった」と山形商を進学先に決めたのである。

 高校に入って1年目は大沼ほどではないものの、プレイタイムも与えられていた。それだけ山形商・高橋仁コーチのなかにも期待があったのだろう。しかし、である。2年生の5月に左足の前十字靱帯を断裂してしまう。仲野と同じように苦しいリハビリを乗り越え、2011年夏の北東北インターハイではベンチスタートながら、チームに勢いをつける役割を担っていた。そして秋の山口国体では本来あるべきスタメンの座を取り戻すと、間違いなく山形県選抜が――ひいては山形商が――初めて全国大会の決勝に勝ち進む原動力となっていた。同時にスコアラーとしても、チームには欠かせない存在であることを改めて示していた。

 だがしかし、と、ここでまた逆接の接続語を使わなければならない。この山口国体こそが、大沼の言っていた3人がスタメンとして揃った大会であり、一方で3人が揃ってコートに立つ最後の大会となってしまう。

 準決勝の対大阪府戦。第3Qの残り3分30秒、自分たちのベンチ前からゴールに向かってドライブをした黒田が、その刹那、コートに倒れ込んだ。山形県選抜のトレーナーは「ブチッ」という音を聞いたと言う。右足アキレス腱断裂である。試合後、高橋コーチも「ようやく戻ってきたのに…運が悪いというか…でも…切り替えるしかない」と力なく答えるのがやっとだった。

 国体が10月上旬、ウインターカップが12月下旬。いくら医学が進歩していようとも、アキレス腱断裂をしたスポーツ選手が2ヶ月弱で元どおりにプレイできるほどに、そのケガが治ることはない。ウインターカップが終わったあと、黒田は「ウインターカップに出られなかったことは悔しかったです。でも2回目のケガだったので心に少し余裕がありました」と言っているが、その本心をつかむことはできない。彼女にとって、ウインターカップという高校生勝つ最後の舞台こそが、高校生活最高の舞台になると信じていたのだろうから。
 

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