前トヨタ自動車 チョン・ヘイルHCインタビュー
雑草軍団を育てた10年間から見えた日本の未来

インタビュー・文・写真/小永吉陽子

2013年2月、KBLの試合を観戦するチョン・ヘイル監督。現在は母国でプロリーグを見ながら充電中。自身の長男、チャンヨン選手はKBLの昌原LGで活躍する期待の若手プレーヤー

「トヨタがオールジャパンで優勝したことで
 日本の女子バスケットボールが
もっともっと競い合って発展してほしい」
 
 
 トヨタ自動車アンテロープスを率いて10年――。組織力と攻めるディフェンスで個性あるチームを構築してきたチョン・ヘイル監督。10年間の指揮で優勝こそ成し遂げられなかったものの、二度のレギュラーシーズン1位を獲得。就任当時は2部から1部復活を遂げたチームの再建を任され、強豪へと押し上げ、無名選手を日本代表へと鍛えた手腕は高く評価される。

 後任にバトンタッチをして、日本を去ることになったのは昨年10月のこと。年が明けた1月のオールジャパンでトヨタは、これまでチョン・ヘイル監督の片腕だった後藤敏博ヘッドコーチのもとで初の日本一へと実を結んだ。チョン・ヘイル監督の10年間の教えが、初優勝への礎を築いたことは言うまでもない。

 このインタビューは、今年2月、母国で充電中の監督を訪ねて行ったものだ。<前編>では選手育成からチーム形成まで、一からトヨタを築き上げた10年間についてをインタビュー。<後編>では、日本代表のコーチとして臨んだオリンピック予選と、日韓女子バスケの未来について語ってもらった。「これからトヨタはもっと面白いチームになると思うし、WJBLはもっと競い合うことが必要」と日本の女子バスケ界の活性化を願うチョン・ヘイル監督。自身もまた、オリジナルなバスケに磨きをかけて、再び日本の地で采配を振るう日を心待ちにしている。

※文中では韓国での呼称である「監督」と表記。
 
 

ライバル国・日本でのチャレンジ

「世界でいちばん頑張るのが日本の選手。
日本の選手を教えることはチャレンジであり、チャンスだと思った」

情熱と信念を持って来日。10年間の指導でトヨタをトップチームへと上昇させた

 インタビュー当日。この日、ソウルの気温はマイナス12度だった。ほんの少し外に立っているだけでも、しびれるような寒さと痛さを感じる極寒の日だったが、そんな寒さをじんわりと溶きほぐすような温かい笑顔に再会した。改めてオールジャパン優勝の話題をすると、「それはもう、めっちゃうれしいよ」と、教え子たちの成長を見守るような笑みが返ってきた。

 チョン・ヘイル監督の練習は、WJBLの中でも厳しいことで有名だ。細部に至るまでにシステム化した徹底ぶりと要求度の高さに、選手たちは幾度となく涙していた。しかし、要求したぶんだけ、練習した分だけ、選手たちは着実に伸びていった。トヨタ独特の呼吸でつながるスクリーンからの連携プレーは、練習の積み重ねから生まれた必然の形だった。

 そして、コートから一歩離れれば、新しい日本語を吸収しては、選手たちとの会話を密にしていく選手たちの父親的存在でもあった。監督の口癖である「めっちゃ」を久々に聞いたところで、日本との出会いからインタビューを切り出した。

「日本との出会いは運命だった。教えたい素材が、それはそれはたくさんいた」――と語るチョン・ヘイル監督の指導者人生は、KBLの名門・KCCの前身である現代でプレーしたのち、兵役除隊後から始まる。

 日本への一歩を踏み出したのは1997年のこと。当時、日本リーグ2部(WIリーグ)の日本通運の指揮官に招聘され、ヘッドコーチに就任した。当時はキム・ピョンオク(ジャパンエナジー、現JX)、イム・ヨンボ(日本航空)、チョン・ジュヒョン(シャンソン化粧品)ら60歳を超える韓国人指導者が、日本に多大なる影響を与えていた時代。偉大なる先輩に続けと、40歳を迎えてのチャレンジだった。
 
 
――1997年に日本通運のヘッドコーチとして日本の地を踏みました。日本で指導をしようと思った理由は何ですか。

日本で指導したかったのは、韓国遠征に来た日本チームを見たときに、“めっちゃ”頑張る選手たちの姿を見て、そんな選手たちを教えたいと思ったからです。日本の選手は韓国の選手に比べたらコーチの話を聞く姿勢、練習に取り組む姿勢がとてもまじめで素直。「こんなに頑張る選手がいるんだ!」と感心したくらい。きっと、日本のバスケ選手は世界でいちばん練習を頑張る子たちです。でも技術力はそんなにあるほうじゃない。だから、日本通運からオファーが来たときには、「ありがたいチャンス」と感じて、絶対に日本に行こうと思いました。

――当時は日本語が話せなかったわけですが、どのように指導をしたのですか。

日本語ができないことが心配でしたが、会社が通訳を用意してくれたので、とりあえず行こうと決心しました。でも、いざ教えてみると、通訳を通したら心からの気持ちが伝わらないから、必死に日本語を勉強しました。半年くらい経ったら聞くことはできるようになり、身振り手振りと単語をつなげて話せるようになりました。だいたいの言葉はテレビを見て覚えたんです。日本ではテレビが友達でした(笑)

――日本通運2年目のシーズンに優勝して入替戦に出場ましたが、チームはその年に廃部。その後は再び韓国に戻られています。トヨタの監督として来日するまでの3年間はどのように過ごしていたのですか。

日本通運で優勝したときは、自分のバスケに自信がついてもっと指導したいと思っていたときでしたが、会社の方針でチームがなくなってしまったのでしかたありませんでした。

韓国に戻ってからは国民銀行の監督として2シーズン采配し、その後はKBLのテレビ解説員を務めたり、KDBのコーチ(サマーリーグのみ。当時は夏冬の二季制)をしました。監督時代は勝ったり負けたりを繰り返しながら自分のバスケットを作り、解説では選手の長所や短所、ゲームの流れを読む勉強をしました。それはとてもいい期間だったんです。トヨタからオファーがきたときは、やりたいバスケは決まっていました。トヨタで自分のバスケを満開にする覚悟を持って来日しました。

――「やりたかった自分のバスケット」とは、どんなスタイルですか?

アグレッシブにスティールを狙うディフェンス。積極的なディフェンスからチームプレーや速攻を生み出すバスケットです。

――今のトヨタのバスケットの形ですね。

そうです。でもまだ完全なものには程遠かった。トヨタの場合は言い方は悪いですけど、高校のトップだった選手は少数しかいなくて、私がリクルートして一から鍛えなければならない選手ばかりでした。それは今も同じで、やりたいことは山のようにあったけれど、私のやりたいバスケを選手たちに理解してもらわないといけないし、選手の長所を見つけて伸ばしていくことが先でした。
 

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