帰化枠で初の代表入り
男子代表に“熱い風”を吹き込む男、アイラ・ブラウン 

9月9日に開幕する「ASIAチャレンジ」。日本は次世代メンバーで臨む。アイラ・ブラウンにとっては日本代表としての初めての大会になる

2016 FIBAアジア・チャレンジ

男子代表に“熱い風”を吹き込む男
アイラ・ブラウン IRA BROWN

(日本代表#35/PF/サンロッカーズ渋谷#33/193㎝/34歳)

「サイズが小さくてもやれることを証明したい。
アメリカ的なメンタリティをチームに与えたい!」

念願だった日本代表入りを果たしたアイラ・ブラウン。インタビューは終始、ポジティブな言葉に満ちていた(写真/宮地陽子)

「モッタイナイ」
コートから聞こえてきたその声に、見学していた記者たちも思わず顔を見合わせた。
声の主はアイラ・ブラウン。ペイント内で味方から絶好のパスを受けながら、ファンブルしてシュートまで持っていけなかったときの言葉だった。
8月下旬に日本国籍を取得したブラウンは、9月9日からイランで始まる「2016 FIBA アジア・チャレンジ」の日本代表に早速帰化枠で選出された。
2年半前に日本人女性と結婚したブラウンは、2年前から帰化申請を始め、とにかく一日も早く日本国籍を取り、日本代表としてプレーしたくてしかたなかったのだという。
そんな気持ちが表れるかのように、コート上では誰よりも声を出し、練習でもハッスルプレーしてチームメイトを盛り上げる。
代表がFIBA アジア・チャレンジに出発する前、ブラウンに日本国籍を取り、代表入りした思いや、『モッタイナイ』と言った理由、彼のバスケ経歴などについて話を聞いた。

取材・文/宮地陽子
写真/宮地陽子・一柳英男

■切望していた日本代表入り&バスケとの出会い

「JAPANのユニフォームを着ることは、
とてもエキサイティングなこと!」

──今回、日本の国籍を取って代表入りしたわけですが、少し前から日本代表としてプレーすることを切望されていたという話を聞いたのですが、そうだったのですか?

「そうなんだ。ずっと楽しみにしてきたことだった。実は2年半前に日本人女性と結婚して、2年前に日本国籍を取るための手続きを始めた。手続きを完了するまで、途中に何度か障害があって、税金の問題や、担当者が変わったことで2回再申請をしなくてはいけなかった。そういったことがあった後に、ようやく日本国籍を取ることができた。国籍を取ってすぐ、マサ(井上雅史氏※1)に、代表に入りたいと言ったんだ。ジョウジ(竹内譲次:今季からアルバルク東京)やミツ(満原優樹)、ケンタ(広瀬健太)たちが誇りをもって国を代表しているのを見てきたから、僕も同じことをやりたかったんだ。
  
僕自身、3 on 3の競技でアメリカ代表として戦う機会があって、ギリシャのアテネで試合をしたことがある。USAと胸に入ったユニフォームを着て、国を代表するということは、とても誇りに感じたことだった。今度はJAPANと胸に入ったユニフォームを着ることができる。前回以上にエキサイティングなことだ」
  (※1=当時、日立サンロッカーズ東京のアシスタントGM。現在はJBA事務次長)

2014 -15シーズンから日立サンロッカーズ東京でプレー(今季からサンロッカーズ渋谷)。身体をはって攻守でハードなプレーを見せてきた(写真/2015年オールジャパンから)

──なぜ、今回のほうがエキサイティングなのですか?

「僕はこの国で生まれたわけではないけれど、チームに大きく貢献できるとわかっているから、とても楽しみなんだ。助けることができる、(代表チームが)上達することを助けるために、できることをすべてやるということに誇りを感じている」

──あなたはバスケットボール選手としては遅咲きの選手ですよね。子供のころは野球をやっていたと聞きました。バスケットボール選手になりたいと思う前に、野球選手になりたかったのですか?

「そうなんだ。子供のころは、ずっと野球をやっていた。バスケットボールは高校でやっていたけれど、その時もまだ野球が一番力を入れていたスポーツだった。夏の野球シーズンに加えて、春も、そして年間を通して野球をやっていた。野球をやれる季節が終わった後、何かやるためにバスケットボールをやっていた」

──野球ではどのポジションでしたか?

「ピッチャーだった。一番速いときで時速90マイル(約145km)の玉を投げていた。(大リーグの)カンザスシティ・ロイヤルズに8巡目でドラフト指名された。それで、大リーグに上がるために5年間努力しようと思った。もしできなければ大学に戻って、バスケットボールをして単位を取ろうと思っていた。

(野球をやめた後)2004年にフェニックス・カレッジに入って2年行き、その後、2007年から2009年までゴンザガに行った。どちらの大学でもバスケットボールですばらしい経験ができた。プレイオフで勝ち進むことができた。WCC(ゴンザガが所属するウェストコースト・カンファレンス)で優勝した。

ゴンザガに入って最初の年は、(NCAAトーナメントで)ステフィン・カリーがいたデイビッドソンに敗れてシーズンが終わった。2年目は、その年のNCAAトーナメントで優勝したノースカロライナに敗れるまで勝ち進んだ。この2年目、つまり僕が4年生だったときのチームは、本当に特別なチームだった。個人的には、ゴンザガのチーム史上でも最も才能の揃ったチームだったと思う。もちろん、違う意見の人もいるかもしれないけれどね(笑)」

──野球からバスケットボールに転向したのは故障のためだったのですか?

「そうなんだ。肘を痛めた。腱炎だったんだ。野球をプレーし続けることもできた。投球をやめなくてはいけないほど痛かったわけではない。でも、そうしたくなかった。野球に対する情熱を失ってしまったから、バスケットボールに戻りたかった。高校の頃からバスケットボールもやっていたんだ。中学の時はやっていなかった」

──高校でバスケットボールを始めて、バスケットボールでも活躍できるとわかっていましたか?

「やっていけるとは思っていた。それだけの運動能力は持っていたからね。リバウンドも、高く跳ぶことで取ることができた。それに、バスケットボールに対しての情熱もあった。フェニックス・カレッジに行ったときには、真剣に努力すれば、特別な選手になれるとわかっていた。その時のコーチもそう言ってくれた。だから、色々なコーチの元で何時間も何時間も練習し、毎年、自分のプレーが上達するように努力してきた。今もそうしている。

年齢だけ見ると、僕は(まわりの選手より)年を重ねているかもしれないけれど、自分ではまだ限界なく上達できると思っている。だから、今もずっと練習し続け、上達するように努力している」

──フェニックス・カレッジやゴンザガではどのポジションをプレーしていたのですか?

「両方でパワーフォワードをやっていた」

──ということは、バスケットボール選手になって以来、ずっとパワーフォワードをやっていたから、日本に来てからも、ポジションを変えなくてはいけない苦労はなかったわけですね。

「そうだね。日本では3番か4番をやっている。(日本の前にいた)アルゼンチンでも3番、4番だった。どこに行っても3番か4番だった。フィリピンでは4番だけをやってほしいと言われた。

でも、求められたらどのポジションでもできるという誇りはある。どのポジションでもチームに大きく貢献できると思っている。自分のプレーをポジションだけで分類することはない。パスすることも好きだし、アンセルフィッシュ(※2)にプレーすることが好きだ。できる限り、チームメイトを生かすプレーをしたい」
  (※2=わがままでない。つまりチームプレーができる、協調性があるなどという意味)

──あなたのサイズだと、アメリカでは4番としては小柄なほうなのではないですか?

「そうだね。でも、僕は高く跳べる。ゴンザガの時、僕は垂直跳びで49.5インチ(約126cm)跳ぶことができた。サイズは小さいけれど、6フィート8インチ(約203cm)~6フィート9インチ(約206cm)ある選手のようにプレーできる」

──選手として、あなたが手本にしていた選手はいますか?

「シャキール・オニールが僕にとって一番のお手本だった」

──彼はものすごく大きい選手ですけれど……。

「その通りだ。僕はそれだけ大きなハートを持っているということだ(笑)。シャキール・オニールのほかに、もちろん、マイケル・ジョーダン、そしてスコティ・ピッペンも好きだった」

──大学卒業した後、メキシコ、アルゼンチン、フィリピンと渡り歩いて、日本に来たと聞きました。

「その通りだ」
 
 
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