元NBAの最強ディフェンダー
ディケンベ・ムトンボ氏がNBA、震災、アフリカを語る

バスケットボール・ウィズアウト・ボーダーズで指導にあたったコーチ陣と参加選手たち

6月半ば、日本初開催となった「バスケットボール・ウィズアウト・ボーダーズ」で元NBA選手のディケンベ・ムトンボ氏(NBAグローバル・アンバサダー)が来日した。現役時代は史上最多4度の最優秀守備選手賞に輝き、最強のディフェンダーとして知られた氏は、引退後は故郷アフリカを中心に熱心に慈善活動に勤しんでいる。今回の滞在では昨年の東日本大震災で被害を受けた宮城県の子どもたちを訪れ、キャンプではアジアの高校生世代を指導したムトンボ氏。その彼が、被災地を目の当たりにしての印象から18年に及んだNBA時代の話、そして貧困や内戦などでいまだに十分な教育や医療を受けることができないアフリカについて、静かに、しかし真摯に言葉を紡いだ——。

文・写真/永塚和志  写真/小永吉陽子

アフリカ出身選手の道を拓いた

日本の記者の質問に答えるムトンボ氏

 アフリカのコンゴ民主共和国(旧ザイール)で生まれ育ったディケンベ・ムトンボ氏が最初にスポーツの持つ“力”を意識したのは1974年10月30日、彼がまだ8歳の時だった。

 その日、同国の首都キンシャサで、かのモハメド・アリとジョージ・フォアマンによるボクシングの世界タイトルマッチが行われたわけだが、ムトンボ氏の住む家はその会場からわずか1ブロックしか離れていなかった。
「私の亡き母親がそのスタジアム内のキオスクで、ソーダやたばこを売っていたこともありました」

 先月13日から16日にかけてFIBAとNBA主導の世界へのバスケットボール普及活動「バスケットボール・ウィズアウト・ボーダーズ (以下BWBアジア)」が日本で初めて開催された。同イベントのために訪れたNBA選手やコーチの中には、デンバー・ナゲッツ等でプレイしたムトンボ氏の顔もあった。

 そのムトンボ氏が多忙な滞在期間の合間を縫って、筆者も加入する日本外国人スポーツライター協会(FSAJ)主催のディナーのゲストとして、自身のNBAでのキャリアから人道支援活動まで、多くのことについて話してくれたのである。

 上記のボクシングマッチに限らず、プロスポーツ史上もっとも注目を集めたスポーツイベントのひとつに数えられる試合は、アメリカでのテレビ視聴者を考慮して深夜に行われた。ゆえに、少年だったムトンボ氏がのちに“キンシャサの奇跡”と呼ばれるようになった試合に足を運ぶ機会は与えられなかったが、それでも会場から聞こえてくる熱気と歓声は深く心に残ったという。

「良い試合だったこともありますが、この試合が人々にアフリカという場所を知らしめてくれたということもあります」

 ちなみにキンシャサの軌跡とは、戦前は不利と言われたアリがフォアマンを破ったために、そう名付けられたものである。英語ではthe Rumble in the Jungleという。

 現在46歳のなったムトンボ氏にとって、アフリカの出身であることが不変のアイデンティティーである。 “第三世界”と呼ばれるほどの貧困にあえぐ国が多いアフリカ大陸出身の彼が、NBAという世界最高峰のプロバスケットボールリーグに入ってから感じたものは、あるいは名声やお金を得ることの喜びよりも、背中からずしりとのしかかるような巨大な重圧だったのかもしれない。

 1991年のNBAにドラフト指名(1巡全体4番目) されてデンバー・ナゲッツに入団した時にムトンボ氏が心に堅く誓ったのは、まず後に続くアフリカ出身の選手の道を閉ざしてはならないということだった。

「私は、昨年亡くなったマヌート・ボル(元ゴールデンステート・ウォリアーズ等)、アキーム・オラジュワン(元ヒューストン・ロケッツ)に次いでアフリカから来た3番目のNBA選手でした」とムトンボ氏。「私は自らに目標を課しました。それは、NBAでプレイする最後のアフリカ出身選手にならないということでした」

 ムトンボ氏が同リーグに入った頃はまだ外国人選手の数はほんの数えるほどしかいなかった。だが、20年という月日を経て状況は劇変。今やリーグには数えきれないほどの外国出身選手がいる。

「今日、アフリカやヨーロッパ、アジア人、南アフリカからこれだけ多くの選手がプレイしている状況は、私にとっては非常に喜ばしいことです。NBAは急速に世界に広がっています。今やNBAの試合は、約225カ国で放映されていますからね」

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